「本能寺の変」が起こったのは、天正10(1582)年6月2日。
現代の太陽暦(グレゴリオ暦)では、1582年7月1日です。
ちょうど今ごろがその時期ですね。
この戦国最大のミステリー、大抵の人は知っているでしょう。
この大事件に翻弄されたのは、当時都にいた武将や公家だけではありません。
武田信玄の娘、松姫をご存知でしょうか。
松姫は、武田信玄の五女(四女、六女とも)で、織田信長の嫡男・信忠の許嫁でした。
「でした」というのは、結局二人が結ばれることはなかったからです。
信忠は本能寺の変で、父の信長とともに亡くなりました。
今回は本能寺の変にまつわるこの二人の悲恋と松姫のその後についてです。

曹洞宗金龍山「信松院」の境内(八王子市)
二人のわずかな婚約期間
二人が婚約したのは1567年、松姫7歳、信忠11歳の時だったといいます。
典型的な政略結婚でしたが、二人は文を交わし心を通わせたと伝わります。
幼い許嫁から届く文は、戦国という壮絶な日々の心の支えだったことでしょう。
ところが武田信玄が三方ヶ原を侵攻したため、婚約は破談となりました。
松姫11歳、信忠15歳の時でした。
今でいえば、小学校高学年と中学生。
現代の同年代より精神年齢が高かったとしても、思春期ただ中の多感な時期です。
突然、未来の伴侶を失ったことは、二人の心に深い傷となって刻まれたのではないでしょうか。
それぞれの道へ
破談の後、まもなく信玄が亡くなり、松姫は実兄の仁科信盛を頼って信州・高遠へ。
一方、父・信長の後継者だった信忠は側室を迎え、男児が誕生。
それぞれ別々の道を歩くことになりました。
それでも二人はその後も相手を思っていた形跡があります。
松姫は名門武田の姫として縁談があっても受けることはありませんでした。
そして、織田家の嫡男・信忠も正室は迎えていません。
ただ、二人の思いの先にあったのは、あまりに過酷な現実でした。
信玄没後、勢力が衰えた武田は織田に滅ぼされます。
その総大将を命じられたのが、信忠その人だったのです。
当時、兄の信盛が治める伊那・高遠城にいた松姫。
織田軍が迫る中、松姫は兄たちから託された幼い武田の子どもたちと脱出します。
信濃から甲斐、そして武蔵国・八王子へ。
追手に見つかるまいと踏み入った山道はそれは険しいものだったそうです。
必死の逃避行の末、たどりついた八王子は当時、北条氏が治めていました。
北条氏は松姫の異母兄・勝頼の正室の実家でした。
松姫はそこで北条氏の下で暮らします。
本能寺の変
武田攻めの後、信忠は松姫を探していたようです。
北条氏を通じてその消息を知ると、京に呼び寄せようと使いを出しました。
正室として迎えるため、と言われています。
けれど戦国の世が二人に与えたのは、さらなる試練でした。
本能寺の変が起こったのは、信忠が松姫に使いを送ったすぐ後。
松姫は申し出を受け入れまさに京へと向かう途中、信忠の死を知ったのです。
松姫のその後
このエピソードは、戦国の悲恋として現代まで伝わっています。
ただ、松姫の生き様に心を打たれるのは、それ以降です。
信忠の死を知った松姫は、その年の秋、わずか21歳で剃髪。
小さなお寺を開きました。
それが八王子市にある信松院です。
創建には、旧武田家臣で後に徳川家康の家臣となった大久保長安が骨を折ったそうです。
松姫はそこで武田一族と信忠を弔う日々を過ごしました。
けれど、悲しみに暮れているだけではありません。
ともに八王子に逃れた武田の幼子たちを立派に育て上げました。
また地域の子どもたちにも読み書きを教えつつ、生計を立てようとしました。
さらには養蚕を学び、それが現在の八王子の繊維産業のきっかけになったとも伝わります。
そして晩年、徳川家との意外な縁がありました。
当時の将軍・徳川秀忠の庶子・幸松の養育にも関わることになったのです。
江戸の田安屋敷で暮らしていた異母姉・見性院からの協力の求めに応じたと言われています。
そして、この幸松こそ、のちの会津松平家の祖・保科正之です。
保科正之は将軍を支え、徳川幕府260年の安定基盤を築きました。
松姫は残酷な戦国の世に翻弄されながらも、太平の世への願いを次世代につないだのです。
松姫をたずねて
先日、信松院を訪れました。
静かで落ち着く、こじんまりとした境内でした。
松姫のお墓にもお参りさせていただきました。
カフェも併設されており、小さな歴史の旅を楽しむことができました。

また八王子市内のお菓子屋さんにはこんな商品も。
松姫が今日まで地元の人々に愛され続けていることがわかります。

境内を歩きながら思いました。
松姫は信忠に一度でも会う機会はあったのだろうか、と。
きっと巡り会えたのだ、そうあってほしいと願わずにはいられませんでした。
戦国時代は強い武将たちばかりが注目されます。
この騒乱の時代に、賢さと優しさで生き抜いた松姫。
時代を超え、悲しくも色あせない感動を覚えます。