伊賀上野の旅(2)

前夜の風雨からは一転、翌朝は日が差していました。

近所の喫茶店でモーニングをいただき、早速伊賀のまちを歩き始めました。

上野公園内にある伊賀上野城と伊賀流忍者博物館を訪れました。

伊賀上野城

宿泊したホテルから、ぶらぶら歩いて約20分。

伊賀鉄道の踏切を越え、上野公園の坂を上ると、伊賀上野城に到着しました。

お城は屋根の破風が美しく「白鳳城」とも呼ばれているそうです。

いざ城内へ!

開館時間の朝9時からまだまもなく、自分以外に入館者はほとんどいません。

1階には、貴重な武具甲冑などの展示品があります。

藤堂高虎が豊臣秀吉から拝領したという「唐冠形兜(とうかんなりかぶと)」もありました。

2階へ続く階段の踊り場を上っていた時、なんと忍者(?)を発見!

ほかのお城では見たことのない“演出”です。

ここだけでなく、伊賀上野のあちこちで忍者の人形が旅行者を迎えてくれました。

そして伊賀上野城の見どころといえば、「日本一」と名高い高石垣です。

17世紀、築城の名手といわれた藤堂高虎が築いたそうです。

高さは約30メートル。

石垣の上から堀を見下ろすとクラクラしました。

手すりなどは見かけなかったように記憶しています。

堀の近くに寄る際には十分注意して、スリルを味わいましょう。

伊賀流忍者博物館

次に、同じ上野公園内の伊賀流忍者博物館を訪れました。

チケットを購入するとまず、くノ一姿のスタッフさんがからくり忍者屋敷の説明をしてくれました。

定番の「どんでん返し」や「隠し階段」を実際に見ることができ、楽しかったです。

この日は、忍術実演ショーはお休みでした。

けれど、忍者資料館だけでも十分見ごたえはありました。

特に、伊賀忍者の得意技についての記述が興味深かったです。

伊賀忍者は、過酷な修行を経て、数々の忍術を身に付けました。

なかでも、呪術と火術を得意としていたそうです。

(中略)伊賀忍者は火術を得意としました。映画やマンガにおいて、ピンチに陥った忍者が火薬玉を爆発させて煙とともに消える(逃げる)のを見たことあるでしょうか?このような火術は実際の伊賀忍者も一番得意としていました。 火薬玉のほかには、火矢や狼煙、ほうり火矢や埋め火・さらには鉄砲など火を操るとされています。ミサイルなどが無かった時代には、火による攻撃は恐怖・ダメージも多かったでしょう。
こちらも、火薬の材料が周囲から入手しやすい土地柄、火薬に詳しい人物が多かったために発達したようです。火薬の調合方法が秘伝中の秘伝(家伝)でした。

引用:伊賀流忍者博物館公式サイト/伊賀流忍術

火術と知って、なぜかあの戦国最大のミステリーが頭に浮かびました。

本能寺の変です。

1582年6月2日、急襲を受けた京都・本能寺は、非常に激しい炎に包まれたといいます。

寺の中にあった数々の名品も失われ、織田信長の遺体も見つかりませんでした。

以前テレビで、本能寺の変後の焼け跡から見つかったという瓦を見たことがあります。

その番組で専門家は、寺を燃やした火力のすさまじさについて話していました。

あの時代、それだけの火力をおこせる者はごくわずかだったでしょう。

火術を得意としていた伊賀忍者…

何か関わりがあるような気がしてなりません。

さらに、伊賀忍者には信長を討つ大きな動機と考えられることもあります。

本能寺の変の直前に起きた「天正伊賀の乱」です。

天正6年(1578)伊勢の国司北畠信雄(織田信長の二男 織田信雄が北畠の養子になり家督を継承)は丸山城を基点に伊賀攻略を企てますが、伊賀衆の攻撃にあって撤退します。天正7年(1579)仕切りなおして北畠信雄が伊賀に攻め込みますが、伊賀衆の抵抗にあって敗退します。(第一次天正伊賀の乱)これを聞いた織田信長は激怒し、自ら出馬を決意し、天正9年(1581)5万の大軍を率いて伊賀に進軍、伊賀全土を焼き払い大人子どもに関わらず殺戮を繰り返しました。伊賀衆は最後まで抵抗を続けましたが、和議が成立し、降伏しました。伊賀地域が歴史上唯一壊滅的な打撃を受けた乱で、800年の歴史を持つ伊賀地域の荘園制度が終焉し、忍者は諸国に離散しました。(第二次天正伊賀の乱)

引用:伊賀流忍者博物館公式サイト/忍術、忍者とは/天正伊賀の乱

伊賀の人々からすれば、あまりに理不尽な仕打ちだったことでしょう。

これが信長を討つ理由であっても、うなずけます。

けれど一般的には、伊賀忍者は徳川家康の「伊賀越え」を助けたことで有名です。

また、本能寺の変自体、50ほどの諸説があるそうで、今なお真相は闇の中です。

伊賀忍者の得意技から本能寺の変を関連づけるなんて、飛躍しすぎでしょうか…

ただ、博物館の豊富な資料の数々は、戦国最大の謎を脳内で遊ぶに足る刺激的な内容でした。

高石垣を下から眺める

伊賀忍者博物館を出た後、少し回り道をして高石垣を下から見てみたいと思いました。

博物館の隣には、「俳聖殿」というユニークな歴史建造物があります。

伊賀出身の松尾芭蕉の旅姿を模して、生誕300年を記念して建てられたそうです。

伊賀上野城の本丸西側の堀に出ました。

やっぱり、高石垣は下から見ても素晴らしい!

写真を撮り忘れたことが悔やまれます。

壮観な石垣に見とれながら、堀の周りを歩きます。

途中、ランニング中の地元の生徒さんに「こんにちは!」と声をかけられました。

上野公園の敷地には、かつて「平楽寺」という大寺院があったと聞いています。

創建は平安時代で、戦国時代には伊賀忍者の要塞だったそうです。

世が世なら、このあたりも物々しさに満ちた忍びの砦だったのでしょう。

それが今、穏やかな公園に変わり、地元の人がフレンドリーに挨拶してくれます。

長い歴史の流れを感じずにはいられません。

伊賀上野の旅に感謝!

上野市駅前まで戻って来て、やっと気づきました。

「忍者市駅」という愛称があったのですね。

小さな駅ですが、構内にも”忍者たち”がたくさんいます。

そして再び乗り込んだ伊賀鉄道にも。

短い一人旅でしたが、たくさんの”忍者のおもてなし”を受けた気がしました。

伊賀忍者の里は、まだまだ奥深く、いつかまた訪ねてみたいです。

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